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    とある工場の仁義ある戦い

    第1話 仁義ある戦いのはじまり

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    2023/05/30

    とある工場とはどのような工場か

     これは、とある工場(本連載ではこの名称で統一する)が車体整備業界で生き抜くための戦いの日々を記録するノンフィクションである。

    とある工場はすでに本誌2019年5月号、2020年12月号の特集にて名前を伏せてその動向を紹介しているが、今回はそのおさらいを含め、とある工場の成り立ちと今を伝えたい。

     とある工場とは、2013年に関東地方のある町の住宅街の中でA氏が28歳の時にひっそりと開業した鈑金塗装工場である。社長には経理面を担当するA氏の妻が就任した。

     敷地は車が2台しか入らない実家のガレージで、およそ工場と呼べるものではなかった。業務内容は中古車業者のバンパー補修などの軽補修や、知り合いの車の修理が中心。

    規模の小ささから看板やインターネットによる集客などは行わず、その日に客が来るか来ないかによって売り上げが左右される状態だった。それでも、A氏が以前勤めていた工場からの下請けや人脈を活かし、月40万円の売り上げを上げていた。

     補修技術を見込まれて軽補修の依頼が増えてくるころになると、実家のガレージでは手狭になるだけでなく、騒音による近隣住民からの苦情が入るようになっていた。これらの要因からとある工場は移転を決意し、2015年に現在の場所に移ることになる。


    A氏35歳のこれまで

     ここで、とある工場のA氏について触れていこうと思う。A氏は現在35歳。華も恥じらうバツイチである。兄の影響で車が好きだったA氏は高校卒業後に整備学校への進学を夢見ていたが、家庭の事情で断念せざるを得なかった。そこで、近隣の鈑金塗装工場で3年ほど仕事をするが、社長と合わずに退職。その後、別の鈑金塗装工場や塗料販売店などを渡り歩く最中に、妻と知り合い結婚。4人の子どもに恵まれる。

     しかし、A氏はたびたび薄給が取り沙汰される鈑金塗装業において、4人の子どもと家庭を守るには限界があると感じていた。だが、好きな車の仕事から離れたくはない。

    そして、2013年に独立に反対する妻の意見を押し切り、一念発起してとある工場を開業することになったのである。

     それが、離婚の引き金になるとは思いもせずに。

    家族のため、そして工場のため

     移転をしたとある工場は、周りが畑に囲まれた敷地面積330坪、延床面積は150坪の工場を、オートバイの修理工場と折半する形で始動した。

     開業に当たって貯金はすべて使い果たした。事業を営み、家族を養うために舞い込んだ仕事は単価が安くても引き受けた。しかし、スタッフがいない一人での仕事は多忙を極める。
    騒音苦情という障害がなくなり、昼夜問わず仕事ができる環境は、気が付けば朝6時から夜中の2時まで仕事をし、工場で仮眠するという日々を作り上げた。2 〜 3日に一度、風呂に入るためだけに帰宅し、すぐさま工場へ戻るA氏の姿を妻や小さな子どもはどのように見ていたのだろうか。その気持ちを今では知る由もないが、明るく楽しい家庭に亀裂を入れるには充分だったのであろう。

     そのような生活が2年続いた2017年。オートバイの修理工場の閉鎖が決まり、とある工場がすべての賃料を負担することになったことで、状況はさらに悪化する。
    賃料の倍増によって大幅な利益減となり、それを補うべく仕事を増やすために設備投資を行い、借金は膨らんでいく。気が付くと家にはまったく帰らなくなっていた。
    そのころをA氏は、「夫婦間に亀裂が入り家に帰るのがつらい。職場で仕事をしているほうが落ち着くようになっていた」と話す。

     家庭、工場、お金。そのバランスを大きく崩した悪循環がくさびとなり、すでに生じていた家庭の亀裂に大きく食い込んでいた。深く食い込んだくさびに決定的な一撃はなく、ただゆっくりと家庭という一枚岩に刺さっていき、同年8月に、静かに二つに割れていった。

    過度な業務により崩壊する前の家庭の写真

    ホームレス、廃業。そして、A氏80円でA社長へ

     離婚に伴い家族6人で住んでいた家を引き払ったが、「親に恥ずかしいところを見せられない」という思いから実家に戻らず、住む場所を失った
    A氏は2 ヵ月にわたって工場で寝泊まりをするホームレス生活を余儀なくされた。季節が夏だったこともあり、風呂は工場の水道で済ませた。

    食事はスーパーで激安食材を購入し、カセットコンロで調理した。炊飯ジャーを購入するお金もなく、飯ごう炊飯も経験した。その状況を憐れんだ後輩からの差し入れの食料に、情けなさとうれしさで涙した日もあった。

     離婚は家を失うだけでなく、社長が替わることも意味していた。A氏は心機一転し、とある工場の廃業を決意する。

    「子どもや家族を守るために始めた工場。仕事のせいだけではないが、そのすべてを失った今、今度は自分が生きるための工場として生まれ変わらせたかった」。

     そして、2017年10月にとある工場は名前をそのままに新たな会社として設立され、A氏はA社長となる。設立時の口座の預金はわずか80円という船出であった。

     新たに部屋を借り、会社を設立した時、すでに借金は600万円に膨れあがっていた。仕事に幅を持たせるための設備投資費、工場の賃料、そして新たに養育費の支払いが生じたことで、A社長自身の健康保険や国民年金の支払いにも困窮する。

    A社長は就任早々から仕事と多額の支払いに追われ、軽度の鬱を発症、自殺未遂を図る……。

    とある工場の仁義ある戦い

     もう一度言おう。この連載は、とある工場の暗澹たる過去と現在を記すものではない。

    18歳から鈑金塗装業に従事し、独立し、苦難にぶつかりながらも生き抜く一人の鈑金塗装業者の仁義ある戦いの日々を記録し、見守っていくノンフィクションである。

     次回は自殺未遂からの復帰、そして当連載筆者とA社長の出会い、そして同連載にいたった経緯に迫る。




    開業した2017年10月13日での口座残高は80円

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