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BSサミット事業協同組合・磯部君男氏偲ぶ

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2025/10/21

BSサミット事業協同組合の磯部君男氏が5月27日、病気療養中に永眠した。享年78歳。

本稿では長年にわたり鈑金塗装業界を牽引してきた同氏の功績を振り返るとともに、8月29日にしめやかに執り行われた「お別れの会」について触れる。

磯部君男氏

研究会発足からスタートしたBSサミット

 車体整備業界で知らぬ人はいないBSサミット。そのスタートは1983年までさかのぼる。1968年に千葉県木更津市で中央鈑金を創業した磯部氏は、自社が軌道に乗り始めると、業界全体に目を向けた。そこで車体整備業、そしてアフターマーケットの未来を考えるため任意団体として「RSサミット21研究会」を発足し、車体整備や整備、車検など様々なジャンルに特化した企業が集まり様々な意見交換を目的とした勉強会を開いたのがBSサミットの始まりである。

 その後、1986年に「ABサミット21」に名称変更した後、1993年に「BSサミット研究会」を設立。1997年に実践集団として「BSサミット」を発足させ、全国150社が加盟する全国ネットワークとした。2009年に事業協同組合として認可され、翌年10月から現在の「BSサミット事業協同組合」としての活動が始まった。


日本国内でのDRP導入に奔走

活動当初から将来の日本の車体整備業界を不安視していた磯部氏は、年間10回以上にわたりアメリカやヨーロッパなど自動車アフターマーケットが成熟する国を視察して回った。そこで磯部氏はアメリカで行われていた事故車修理の入庫誘導である「DRP(ダイレクト・リペア・プログラム)」に出会う。

 アメリカでは基本的に保険会社が指定する事故車専門修理センター(コリジョンセンター)で修理が行われており、同センターでは損保アジャスターがその場で見積りを作り、そこで修理が行われていた。また、アメリカの工場は保険代理店をやっておらず、工場と損保会社による利益相反もなかったこともあり、100%DRPで、保険会社に工賃レスされることもなかった。このようなアメリカのシステムに磯部氏は感銘を受け、日本での導入を検討する。

 だが、当時の日本はダイレクト系損保会社が限られていたこと、各工場が保険代理店としての一面を持っていたことから現実は難しいと思われていた。

 しかし、日本の鈑金塗装工場の下請け体質を危惧し、環境変化への意識が誰よりも高かった磯部氏は下請け脱却と車体整備業の社会的地位向上のため奔走。損保会社や関係各所との調整を一手に引き受け、1997年に日本版DRPを始動させた。当初は反発もあったそうだが、各方面へのていねいな説明が実り始めると、ほぼすべての損保会社が認め、磯部氏がつねづね口にしていた「工場、損保会社、顧客の三方よし」の一つを実現させたのである。


業界の発展と未来のため

 DRPを普及させた後も、磯部氏はBSサミット組合員のため、業界全体のレベルアップのため、様々な活動を行ってきた。事業者同士の連携を強化したほか、先進安全技術の対応なども組合員を中心に徹底させた。全組合員を対象にした超高張力鋼板に対応したスポット溶接機の数値計測検査や、2016年から開始したテュフ ラインランド ジャパンと提携した「エクセレント車体整備工場認定制度」もその一端である。同年、自動車ユーザーへの安心・安全な車体整備の提供をコンセプトにした「安全な自動車の車体を確保する議員連盟」を発足させ、損保会社、国土交通省、金融庁、中小企業庁、公正取引委員会など関係省庁を交えて業界の課題解決に向けた活動を展開。

 近年では車体整備業界、自動車整備業界の垣根を超えた新業態として「モビリティサービス業」を立ち上げるなど、常に次世代に対応するための動きをどこよりも先んじて動いてきた磯部氏。

 制度設計や環境対応、技術力向上と日本における自動車補修業界の発展に大きく寄与してきた磯部氏の熱い意志は石井英幸理事長に受け継がれた。改めて磯部氏に感謝の意を表するとともに心からのお悔やみを申し上げる。

(青山竜)

「故 磯部君男 前理事長 お別れの会」、しめやかに

BSサミット事業協同組合(石井英幸理事長)は8月29日、5月27日に78歳で永眠した磯部君男前理事長の「お別れの会」をANAインターコンチネンタルホテル東京(東京都港区)で執り行った。同会場では磯部氏のこれまでを振り返る写真のほか、寄せ書きなどが用意されたメモリアルコーナーも用意され故人を偲んだ。

 冒頭、磯部氏のこれまでの経歴と功績が紹介され、弔電が披露された。続いてお別れの言葉として、BSサミット顧問(元自由民主党幹事長)・中川秀直氏、BSサミット監事・浦彰彦氏、イヤサカ顧問・飛田義雄氏、テュフラインランドジャパン・古屋利徳氏が磯部氏への感謝と思いを伝えた。

 その後、磯部氏のこれまでの功績をたたえ、同組合から「名誉会長」の称号を追贈することが発表され、石井英幸理事長から磯部氏のご子息である中央鈑金・磯部友昭社長に記念の盾が送られた。友昭氏は父であった君男氏との思い出を述べ、「組合員の方々は父の笑いと恐怖の境目を探るのが大変だったと思う」と話して会場を和ませると、「亡くなる前日もメーカーとの連携(DMS=メーカー・ダイレクトメンテナンス・ソリューション)をやるつもりで話をしていたほど業界を思っていた。本人は寂しがり屋なので参列者の方々もたまには思い出してほしい」と挨拶した。

 最後に石井英幸理事長による挨拶の後、約500人の参列者による献花が行われ、故人との別れを惜しんだ。


実行委員長として挨拶をする石井英幸理事長

追贈された名誉会長襲名 の記念盾

寄せ書きには多くの組合員からのメッセージが

お別れの言葉

BSサミット顧問

中川秀直 氏

BSサミット事業協同組合・磯部君男氏偲ぶ

今から 20 ~ 30年前、広島のホテルで挨拶をされたのをきっかけに、年齢も 3つ違いだったこともあり兄弟のように付き合ってきた。付き合いが長かったので何を話していいのか分からないくらいだが、何事にも真剣で愚直、本当にまっすぐな人だった。仲間のために先頭に立つことが自分の仕事だと思い定め、夢中で突っ走ってきた。今は安らかに忙しかった毎日を少しずつ癒しながら過ごしてもらいたい、過ごしてくれているだろう。磯部さん、ありがとう。さようなら。

BSサミット監事

浦彰彦 氏

BSサミット事業協同組合・磯部君男氏偲ぶ

理事長がよく口にされていた「地域で一番になれ」はいつも私の胸にある。あまりにも大きな存在で、突然の別れを受け止めることができず、いまだ深い悲しみの中にいる。誇張抜きで 365日、朝昼晩と 1日に少なくとも3回は必ず電話をもらい、仕事の相談やアドバイスをもらってきた。これからの時代を築いていく組合員に対して、理事長からいただいた言葉を胸に精一杯手伝っていきたいと思う。親父、見ていてくれ。親父、ありがとう。親父、お疲れさまでした。

イヤサカ顧問

飛田義雄 氏

BSサミット事業協同組合・磯部君男氏偲ぶ

磯部さんとは私が 25歳の時から半世紀以上の付き合いだった。時には意見が合わず、ケンカ寸前になることもあった。当時、業界は大きく変化する時で、車検整備の技術が必要であり、そのような中で磯部さんは新しい車検センターの建設を行い、1年後には年間車検台数が年間 1,000台を超える実績となった。磯部さんの先見の明は素晴らしく、今日、私がここにいるのも磯部さんが「俺を手伝え」の一言から始まった。ありがとうございました。

テュフラインランドジャパン

古屋利徳 氏


BSサミット事業協同組合・磯部君男氏偲ぶ

「俺は100歳まで生きるからお前も頑張って業界に貢献しろ」といつも口癖のように言っていた磯部さん。突然に亡くなるなんて早すぎませんか。1987年に出会い、BSサミット研究会のチャーターメンバーとして参加できたことは大きな経験と学びになりました。

常に先を読み、時代の変化に対応した人でした。道半ばでの逝去はさぞ残念だったことでしょう。あなたの意志は石井新理事長の下、全員が引き継ぎ、頑張っていきます。どうか、天国で見守っていてください。