JOURNAL 

    <小説>鼓動 もう一つのスクープ(最終話)

    • #一般向け

    2022/06/30

    BSRweb小説企画第一弾

    業界記者の視点で描く、自動車業界を題材にしたオリジナル小説。
    (第1話へのリンク)

    ※この小説はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

    最終話 レシプロエンジン、姿を消す日

     自動車業界再編の嵐の背景には“百年に一度”の大変革が迫っているからだ。
     米カリフォルニア州が35年に石油燃料で走るエンジンを規制しカーボンニュートラル(脱炭素)に大きく舵を切った。この法案が議会を通ったことにより、日本を始めヨーロッパ各国が一斉にノンカーボン車の開発に本腰を入れることに。加えて、世界最大の自動車市場である中国が35年にレシプロエンジン車を規制、脱炭素化にする決定を下した。
     すでに日本ではハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)を世界に先駆けて開発、普及している。各社の予想より早い時期にノンカーボン車が自動車市場の主役に躍り出るのか。
     トキワ自工の浦沢広報課長や朝日自動車の飯島常務らから、「脱炭素車の普及拡大は何時頃になるのか」との問い合わせが北沢にも来るように。しかし、この返答に窮する。帝都自工のHVは一定の台数が売れているが、他の朝日自動車やトキワ自工、それに岩崎自動車のEV車の普及ペースが予想よりも遅い。乗用車に占める脱炭素車の比率は1%に届かないのだ。さらに600Kmに走行距離を伸ばしたトキワ自工の「トキワEV」や松沢工業などメーカー各社がこぞってEVの新型車を開発・発売したものの、その先行きは決して安泰を保証されたものばかりではない。
     脱炭素車が中心の市場になるのは一体いつ頃になるのかの見通しについて、田村は「35年には車の九割以上が脱カーボンになる」と断言する。
     しかし、北沢はこれまで培った取材を基にした見通しでは「向こう5年までにはEV車が普及」と読んでいる。
     この見通しを裏付けるため以前、世界一厳しい排ガス規制値をクリアした新型エンジンを開発・販売したトキワ自工の前部品部所属だった藤田正男開発責任者に連絡、インタビューを申し込んだ。
    「お久し振りです。あの時の新型車開発、販売の反響はすごかったですね。ところで、今回は現在開発している脱炭素車についてお伺いしたいのですが」
    「まだ、何もお答えできるものがありませんのでお断りします」
    「そうですか、ではこの電話で現在の開発状況を差し支えない範囲で答えていただけませんか」
    「トキワ自工の企業精神は結果がすべて。脱炭素の範疇で走行距離が600キロ以上の車を開発しろと。その要請を受けた車をどうにか実現できた。走行距離を飛躍的に伸ばすには駆動力の基になるリチウムイオン電池を一から開発する必要があった。随分、分厚い壁に突き当たった。だが、ようやく納得できる電池が出来たと思っています。画期的なEV車の市場投入や高性能水素エンジン車の本格投入も近い」

     これ以上のコメントは申し上げられないとの話だったが、新しい開発状況が分かり大きな収穫を得た。
     トキワ自工の“未来車”の開発状況の一端を知り、北沢が描いていた「5年以内に自動車市場の構図が一変する」との予測が確信に変わった。世間が予想するより、早く脱炭素社会を迎えることになりそうだ。
     ノンカーボン時代の到来と並行して、日本の人口減少の問題化により従来の移動ビジネス一辺倒を脱する発想が求められている。すでに移動ビジネスを柱に新しい業態の開拓に軸足を移す模索がメーカー各社で始まっている。
     帝都自工では地域全体を、ITを駆使したコミュニティーにする構想を明らかにした。朝日自動車は撤退したロケット分野の技術者を中心に宇宙ビジネスへのチャレンジを模索中だ。さらに大学と技術提携し空飛ぶクルマの試作車を開発、23年をメドに実用化を目指している。EV車の普及を見越して、異業種企業の自動車市場への参入が活発化している。
     これらの新しい波の中で、自動車業界で仕事をしている業界紙(誌)に従事している記者は一体生き残っていけるのか、一旦立ち止まって考える時期に来ているのではないか、と北沢は思い同僚の田村の心情を聞くことにした。
     新橋の居酒屋久助で「田村さん、これからも業界紙を続けるつもり。業界の記者に対しメーカーのガードが随分厳しくなっているが・・・」と反応を待つ姿勢を示す北沢。
     「自分はこれまで通り記者を続けて行くつもりだけど。最後までこの業界に骨を埋める覚悟で仕事をする」と明快に答える。
     田村の何事にも動じない姿勢に対して、北沢は珍しく弱気に頷く。新しい環境に順応できるかどうか、自信が持てないことを吐露。モチベーションが急に下がり、体力の衰えを感じ始めていたことを告白する。
     これまでの気持ちを整理すると同時に気分を一新するために長野の果樹園を手掛けている黒川を訪ねたいと田村に話す。「一緒に行きましょう。久し振りに三人でたわいのない話をするのも大切だ。空気が澄んでいる果樹園で過ごせば、また新しい発想が生まれるかも」と長野行きに賛意を示す田村。
     翌日、上越新幹線に乗り込み長野に向かった。途中、軽井沢を通過した時、何気なく車窓を見ると、晩秋の鼓動が一瞬聞こえたような気がした。車内で揺られながら「当分、体を休めることにしよう」と心の中で呟いた。何かの重圧から解き放たれたように、さわやかな気分に満たされた不思議な感覚がわいてきた。
     旧友を温めた三日間、楽しい時間を過ごし心身ともにリフレッシュできたと感じた北沢は、東京駅で田村と別れ板橋の自宅に戻り玄関のドアを開けた瞬間、後ろから押し殺した声で「北沢さんですね。署まで同行願えますか」と言われる。一瞬、何が起ころうとしているのか理解できなかったが、警察手帳と捜査令状を示されたため、ようやく何が起ころうとしているか判断できた。一通り家宅捜査した後、その場で逮捕された。容疑は海外逃亡した朝日自動車の元会長・ヘンリーの妻マニエル宅侵入によるプライベート侵害。東京都条例の軽犯罪に相当するというのだ。心当たりが全く無かったが、一つだけ考えられるのは夫人宅に監視カメラを取り付けるために、邸宅の敷地の塀に足を掛け隣接している電柱にカメラを設置したこと。
     その場で抵抗を試みたものの、所轄署に連行され捜査当局の厳しい追及を受けることになった。この事件をマスコミが一斉に興味本位に「うさんくさい記者逮捕」と報じた。裁判の結果を待つことなく、業界紙記者の記者生命が断たれたことを意味している。

    -完-


    <筆者紹介>
    中野駒
    法政大学卒 自動車業界紙記者を経て、自動車流通専門のフリー記者兼アナリスト。業界歴併せて40年。

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